2015年09月23日

連休過ぎても忘れない!

今日は、33周年の結婚記念日…ですが、この数日の風邪で、今日も家の中で過ごしています。先週末の市議会本会議で、戦争法の廃案を求める請願への賛成討論をしながら喉の変調を自覚、案の定その夜から咳き込みだして、予定をキャンセルできるものはしながら、自分が責任者や事務局の会議に出ている内に症状が悪化。結局シルバーウィークを通じて寝たり起きたりの状態で、今日はチョット良くなった感じです。来週には決算議会を控え、気が気ではありませんが、体力温存と割り切って養生しています。それでも、自宅でできることをと、この間に戦争法に関する行動案内ビラも一種類作成、ニュースを二種類、党市議団のミニニュースと市民団体のニュースを編集・作成、印刷・発行しました。他に国民救援会のバスツアーの企画書も作りました。これはけっこう楽しみながらできました。
大阪で初任者研修中の次男は、連休初日に顔をチラッと見せた切りです。東京に赴任中の長男は、帰省しても友人や彼女との時間に忙しいらしく、今日午前中に彼女に見送られて戻っていきました。・・・というわけで、今日は夫婦ふたりで久々にゆっくりと流れる時間の中で過ごしています。

それにしても「連休過ぎても忘れない!」ですよね。戦争法をめぐる安倍政権の国民主権も立憲主義もふみにじった今国会を・・・

以下に、18日に市議会本会議で行った請願への賛成討論を掲載します(ちょっと長いですけど、よろしければどうぞ・・・)
「安保関連法案(戦争法案)」のすみやかな廃案を求める請願書 への賛成討論

日本共産党を代表して、「安保関連法案(戦争法案)」のすみやかな廃案を求める請願書 への賛成討論を行ないます。

先月8月15日に市民センターで開かれたユネスコの平和のつどいで、ある年配の方が歌を何首か紹介されました。そのうちの一首に次のような歌があります。

ふたたびは銃をとらじと ちかひたる きびしきのりも 風になるがに
芦屋市の誇る詩人、富田砕花が憲法9条の「風化」を嘆いた歌ですが、昨日からの国会を見れば、その思いを強くするのは、私だけではないと思います。
安全保障法制関連法案いわゆる戦争法案が参議院特別委員会で「強行採決」に付されました。委員長の職権乱用に対して野党が出した委員長不信任動議が与党の多数で否決されて、鴻池委員長が席に戻るや否や、与党議員が委員長席を取り囲み、かけつけた野党議員を力ずくで排除する中、委員長の議事運営の声も聞こえないにもかかわらず、自民党筆頭理事である佐藤正久参院議員の指示で与党議員が起立し、締めくくり質疑もないまま、形ばかりの採決で、可決されたとする暴挙を目の当たりにし、憲法違反の戦争法にふさわしい決め方だとひにくることさえむなしくなる思いにもなりましたが、すぐにそのむなしさを吹き払う怒りがふつふつと沸いてきました。
同時に、廃案を訴えて国会をとりまく人々の中に、この国の将来への希望も見たように思います。憲法9条の風化は、政府与党の中のことであり、若者をふくめ国民の中にはしっかりと根付いているということです。
かつてのような組織動員ではない老若男女が、それぞれ一人の主権者としての意思をもって行動に参加する姿は、この国に民主主義の新たな段階の到来を予感させます。
そこに信頼して、私たちも仮に法が成立させられようともその施行を止める新たなたたかいを進めて行かなければと思います。

請願が法案の廃案を求める妥当性は、何よりも法案の違憲性にあります。
請願でも指摘しているように、衆院憲法審査会に招致された参考人全員が法案を「憲法違反」と断じたことは、ご承知のところですが、その指摘は歴代の元内閣法制局長官からさらに、「憲法の番人」と称される最高裁判所の元判事、元長官へと広がりました。安倍内閣やその与党が、いくら専守防衛のための限定的な集団的自衛権行使だと説明しても、その論理矛盾が誰の目にも明白であるとともに、その根拠を砂川判決と1972年の政府見解に求めることがかえって、法案の法的安定性の無さを示すことになりました。
元最高裁長官の山口繁氏は、今月3日、安保関連法案について「集団的自衛権の行使を認める立法は憲法違反といわざるを得ない」と述べ、砂川判決が「必要な自衛の措置」に言及していることについて「集団的自衛権を意識して判決が書かれたとは到底考えれらない。」と言い切っています。
法案のこのような違憲性の明白さゆえに、弁護士でもある篠山市の酒井市長の発言が説得力をもつのだと思います。
市のホームページで酒井市長は、このように言っています。
「これを合憲と言う人は、憲法を勉強したことがない人か、あるいは憲法学者より自分が偉いと思っている人、あげくは憲法より自分が偉いと思っている人ではないかと思います」本市の山中市長の「戦争できる国にするという愚かな選択」と言う発言も、歴史の教訓から導き出された重みのある言葉だと思いますが、酒井市長の発言は、さらに痛烈ではあるけれども核心をついた言葉だと感じました。

総務常任委員会での委員会審査では、この集団的自衛権についての国連の定義と法案での定義が異なるかのような発言が請願に反対、法案に賛成の議員からされましたが、本当にそうであるならば、法案が国際社会では通用しないことを自ら認めるものです。
昨年の閣議の時に持ち出された武力行使の「新3要件」なるものも、あいまいな言葉をちりばめて要は時の政府が判断するというものであり、憲法さえも解釈で変えてしまうことで立憲主義さえもふみにじる今の政権の下では、何の歯止めにもなりません。
限定的であろうとそうでなかろうと、集団的自衛権とは、わが国が攻撃されたわけではないのに、他国からの応援要請に応えて、あるいは自ら進んで応援を申し出て戦争に参加することであり、それは相手国からすれば、戦争の相手にしているわけでもないわが国からの先制攻撃をうけることであり、そのことにより日本が反撃を受ける極めて高い危険性を生み出し、あるいはテロの標的にされる危険性を高めるものであり、原発と言う格好の標的を全国に散らばらせているわが国にあっては、まさに存立危機事態を自ら招くことになるものです。
安保法制、戦争法への批判に対して、ときおり「では、日本の平和を守る対案は」と問い返す人がいます。日本共産党としては、かねてより北東アジア平和協力構想を提起し、諸外国からも高い評価を受けていますが、あえて言うならば、現局面では、あらたな緊張関係を生みかねない安保法制、戦争法を廃案にすることこそ、平和を守る最大の対案だと申し上げておきたいと思います。

集団的自衛権の行使で想定されるのは、アメリカの戦争への参加ですが、そのアメリカがいかに間違った戦争をしてきたかは、アメリカによるトンキン湾事件のデッチ上げから始まったベトナム戦争、近年では大量破壊兵器の保有という虚構の口実で始まったイラク戦争など枚挙にいとまがありません。そんな不正義の戦争に加担させられ、日本の若者や相手国の無実の人々を巻き込み、殺し殺されることになるのが集団的自衛権の行使であり、憲法が禁じている戦争そのものです。
憲法九条は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。」と謳っています。この放棄した国権に集団的自衛権は含まれないなどと言う論は、いかに限定的という言葉をつけようとも成り立つものではありません。

安保環境の根本的変容などと、わが国の安全保障環境が厳しくなっているということも安保法制の根拠にされています。集団的自衛権行使は憲法違反というこれまでの政府見解を覆し、わが国の平和と安全のためには法的安定性などどうでもいいなどという暴論は論外であり、憲法違反の法案を正当化する論拠にはとうていなり得ませんが、そもそもが果たしてほんとうに安全保障環境が厳しくなっているのかも問われなければなりません。わが国が近隣諸国と国境問題をかかえていることは確かであり、その解決が求められますが、それは国際法と道理にもとづいて行なわれるべきであり、安保法制とその具体化によるいわゆる軍事的対抗で進むものではありません。政府は、根本的変容の具体的中身を示すことができずに、一部に言われる中国脅威論さえ、政府は国会答弁で否定せざるを得なくなっています。中国を例に見てもいまやわが国の対外貿易第1位が中国であり、中国にしても重要な貿易相手国が日本です。両国が武力で合い争うことにでもなれば、両国の経済が成り立たなくなる自滅の道を共に進むことになるというのがいまの時代です。当初、安保法制発動の具体的事例として政府が説明したホルムズ海峡の機雷掃海も、イラン自体が否定し、安倍内閣も現実的には想定していないことを認めざるを得なくなり、いわゆる立法事実自体がなくなるという事態になっているのが、安保法制をめぐる現状です。ならば廃案しかないではありませんか。

そもそもが中国や北朝鮮など近隣諸国との問題は、集団的自衛権ではなく個別的自衛権の問題ではないんかとの指摘がされることに対して、「抑止力」を理由に集団的自衛権行使の安保法制をへ正当化する主張もされてきました。
しかし、その主張は、すでに日米安保条約によって米側には日本防衛の義務が課せられているということをあえて後継におしやり、ある意味屋上屋を重ねて米軍による抑止力効果を強調するtで、国民の問題意識をそらせ、日米安保条約を超える安保法制の危険性をごまかそうとするものです。日本防衛を口実にした米軍基地強化という日米安保条約の欺瞞性に加えた国民への二重のごまかしであり許せません。 
今日は満州事変と言われた柳条湖事件勃発84年目の日ですが、シナ事変と言われた盧溝橋事件とともに、一発の爆弾を口に、あるいは一発の銃声を根拠に、自存自衛のための抑止力のはずの軍隊が牙をむいて侵略力となって行った歴史を思い起こさなければならないと思います。「いまは、シビリアンコントロールがある」ということも、法案成立前からのにち自衛隊の独断専行を暴露した内部文書の発覚によって、信頼性を失い、説得力を持たなくなってしまっているのが現状です。法が成立すればその暴走が加速することになりかねず、日本国民の平和と安全がさらに危機にみまわれることになりかねません。

それでもなお、ひとまず自衛隊が送り込まれるところが、安全であるかのように言いつくろうため、安倍内閣は、国際概念としては戦闘行為と一体である武器弾薬、燃料の補給活動である兵站活動を「後方支援」などと言い換えたり、身を守るための必要最低限の武器使用は憲法が禁じる武力行使ではないと繰り返したりしますが、そのようなことをいくら言ってみたところで、国際社会では通用しないのであり、戦争の実態からかけはなれた虚構の世界での論理でしかありません。そのような論理で、歴史の過ちをくりかえすことを私は良しとしないが故に戦争法である安保法制には絶対反対であり、廃案を求める請願に賛成するものです。

一昨日私は、請願者のお一人から手紙をうけとりました。そこに添えられていた一文に先の戦争体験者の切実なまでの平和への願いを感じ取りました。短い文章なので読み上げたいと思います。
「おばあちゃんからのお願い・・・あなたは息子を戦場へ遅れますか? あなたは戦場に行って人を殺せますか?
私たちは大正から昭和初めに生まれた80歳近いおばあちゃんです。
でも私たちは、昭和のあの戦争をこの眼でしっかり見てきました。
まだ若くて何も考えず、政治家の言うとおり一生懸命戦争に協力しましたが、それを思い出すと恥ずかしくてなりません。
私たちは右でもない左でもない、普通の家の小さいおばあちゃんです。
でも、300万人以上の日本人が死んだあの戦争で、その一人一人の家族がどんな思いをしたか、それが忘れられません。そして、戦場になった国の人々に、より深い怒りや悲しみを与えたことも。あの時のような思いを私たちの子や孫たちには絶対させたくない、そう思うと居ても立ってもいられずこれを書いています。
戦場に行きたい人など誰一人いないはずです。
私たちも大事なかわいい孫やひまごを戦場にやりたくはありません。
人を殺したり殺されたりする場所に行かせたくないのです。
私たちは願っています。この日本の国が、いつまでもいつまでも、
戦争をしない国であることを! そしてまた、
戦争の手助けをしない国となることを!
私たちはこれから先そんなに長くはいきないでしょう。けれども、若い頃戦争する国日本に協力してしまいました。たからこそ、こんなおばあちゃんが勇気をふるってお願いするのです。
どうか眼をしっかり見開いて、自分の歩く道を選んでください。
あなたは息子を戦場へ送れますか?
あなたは戦争に行って人を殺せますか?」


この戦争体験世代の言葉は、国会前の集会に参加したある女子学生の言葉にも通じるものです。彼女は「後悔の中に、体を震わせて泣くことはしたくない」とマイクをもって戦争法の廃案を訴えました。歴史の教訓がしっかりと生かされようとしていると私は思いました。
そのような思いがいま全国に広がっているのです。

請願の妥当性のいまひとつはそこにあります。つまり、安保法制、戦争法案の可決は、歴史の教訓を生かそうという国民の意思に反しているということです。民主政治における基本的な問題点です。
九月に入ってからの最新の世論調査では、法案に反対が6割を超え、国民に十分な説明がされていないとの回答が8割を超えています。慎重審議も含めて今国会での成立に批判的な意見も8割を超えています。
時間的経過と共に、反対や批判が増える現状は、いかにこの法案が問題をはらんでいるかを示しています。
立憲主義と国民主権から逸脱した内閣は退陣しかない、そんな政府が出した法案は廃案しかない、そのことを強く指摘し、請願への賛成討論とします。

posted by 平野 at 15:47| Comment(0) | 日々雑感
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